2024年7月 武道史の研究

※このレポートは2022年9月に掲載されたものの再録です

その7 吉田松陰の弟子たち

 前回のレポートでは幕末の志士吉田松陰が祀られている「松陰神社」を訪ねた。

吉田松陰自身は「山鹿流兵学」「長沼流兵学」といった兵学を修めたものの剣術等の武術は学んでいなかった。

山鹿流兵学は林羅山に入門して漢学教育を受けた山鹿素行によっておこされた流派である。単に戦法学というより太平の時代に士道学としての広い構想のもとに講受されたものである。長沼流兵学は信濃国松本藩士長沼澹斎によって編み出された流派。同時代の山鹿流兵学と並ぶ新兵法学の双璧として江戸で名が知れ渡った。西洋流の砲術を取り入れたと言われている。

 吉田松陰が教えた松下村塾に塾生名簿は存在しないが、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたと言われている。

 著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、天野清三郎、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがいる。

 このうち、松下村塾四天王と呼ばれたのが久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の4人である。四天王の中でも一、二を争ったのが久坂玄瑞と高杉晋作の二人である。高杉と久坂は「識の高杉、才の久坂」と並び賞されていたが、この言葉に二人の才能の違いがよく表れている。識は知識で高杉晋作は物事をよく知り、才は才能で久坂玄瑞は天賦の才があったということだと思われる。

 いわば、高杉は秀才型、久坂は天才型であったと言ってもよいかも知れない。

この二人に吉田稔麿を加えて三秀という呼び方をされることもあり、三人に入江九一を加えて四天王という呼び方がされている。

 しかし、彼ら松下村塾四天王が維新後の世をみることはなかった。久坂玄瑞は禁門の変で自害。享年24歳。高杉晋作は肺結核のため慶應4年(1867年)に死去。享年27歳。吉田稔麿は元治元年(1864年)の池田屋事件では池田屋から屯所にもどった際に事件が起き、池田屋に駆け付けようとしたところを襲われて討ち死にした。享年23歳。入江九一も久坂玄瑞と同じく禁門の変で自害。享年23歳であった。

 

 参考文献

 

   「吉田松陰と松下村塾」 古川 薫著 新日本教育図書