2024年3月 武道史の研究

※このレポートは2022年7月に掲載されたものの再録です

その4 桜田門外の変 井伊家を守った武士達

 前回レポートした、井伊直弼は近江彦根藩第15代藩主であり、幕末期の江戸幕府において大老を務めた人物であった。その井伊直弼が生涯を閉じたのは「桜田門外の変」という暗殺事件であった。

 事件の舞台となった桜田門は江戸城(現在の皇居)の内堀につくられた門のひとつで桜田掘と凱旋掘の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城桜田門」国の重要文化財(建築物)に指定され、特別史跡「江戸城跡」の一画を占める。なお、江戸城には内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」と呼ばれる場合は後者を指すことが多い。

 「桜田門外の変」は安政7年3月3日(1860年3月24日)の午前9時頃に起こったが「桜田門」から彦根藩邸まではわずか三、四町(327~436メートル)の距離であった。また、当日は明け方から季節外れの雪模様で辺りは真っ白になっていたものの、沿道には江戸町民らが大名行列を見物していた。

 雪で視界が悪く、加えて彦根藩護衛の共侍達はみな雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、襲撃者側に有利な状況であった。そのような不利な状況の中で共目付であった彦根藩士河西忠左衛門良敬は柄袋のかかった状態で襲われたものの、一旦退き雨合羽を脱ぎ、柄袋を外し襷をかけたうえで冷静に抜刀し、二刀流の見事な剣術で襲撃者に相対した。彼が生きている間は誰も籠に近づけなかったと言われている。また、同じく籠脇を守っていた永田太郎兵衛正備も二刀流で奮戦し襲撃者に重傷を負わせるものの銃創がひどく討ち死にした。

 河西忠左衛門良敬、永田太郎兵衛正備は両名とも二刀流の使い手であったと言われているが何流の剣士であったかは明らかになっていない。

 「桜田門外の変」で永田太郎兵衛正備が使用した愛刀が子孫の方によって井伊の赤備え、甲冑等とともに彦根城博物館に寄贈されている。また、河西忠左衛門良敬の刃こぼれした刀も同じく彦根城博物館に保存されている。機会があれば一度彦根城博物館に行きそれらの展示物を見てみたいものである。

 

参考文献

 

    彦根城博物館HP