2023年9月 武道史の研究

※このレポートは2022年4月に掲載されたものの再録です。

 

「武道史研究」

私の古武道の師である森本邦生先生は無双神伝英信流抜刀兵法、大石神影流剣術、渋川一流柔術の伝承者である。加えてライフワークとして武道史の研究も行っている研究者でもある。貫汪館で学ぶものは三流派の古武道を学ぶとともに

武道史の研究を行うこととされているが中々に敷居が高く感じられ武道史については後回しにしてきてしまったと反省していた。そんな折に森本先生から簡単な内容でも良いので自分が住む地元の武道史についてHPを通じて発表することを勧められた。一念発起し、私が現在住む世田谷に関係する武道史について記していきたい。何分にも初めてのことなので間違い等散見されると思うがご容赦願いたい。

その1 世田谷の歴史

世田谷の武道史について記す前に世田谷の歴史について記してみたい。私は元々埼玉県出身で世田谷には数年前に移住してきたため町の歴史についてはあまり知識がない。地元の図書館やインターネット等で調べたところ以下のような歴史があることがわかった。

 世田谷にはおよそ3万年前から人が住んでいたと考えられている。また、古墳時代中期(5世紀頃)に作られたと思われる野毛大塚古墳がある。この古墳は

当時機内王権と深く結びついた南武蔵地域の大首長墓と考えられ当時の政治・社会の展開を考える上で重要なものとなっている。

 武士が台頭し始める中世、平安時代末期から鎌倉時代。現在も世田谷区に地名として残る「喜多見(木田見)」が鎌倉時代の史料に「武蔵国木田見郷」として記載が見られる。元来、この「武蔵国木田見郷」は、江戸庄(現皇居一帯)を本拠としていた江戸重長が源頼朝から安堵されたものだった。そしてこの重長の次男の家系がこの領地を代々相続し、郷名にちなんで「木田見氏」を名乗るようになった。木田見氏は少なくとも15世紀初頭まではこの木田見郷に領地を持っていたことが確認できている。

 室町時代、世田谷には吉良氏(赤穂浪士でお馴染みの吉良上野介の吉良氏の支流)が世田谷城を築いていた。その後、関東地方では北条氏が有力な戦国大名となり、これにともない世田谷の吉良氏も北条氏に従うことになったが、1590

(天正18年)小田原の役で豊臣秀吉に吉良氏は降伏し世田谷城を無血開城、終焉を迎えた。

 徳川家康が江戸幕府を開いた際に幕府は世田谷の土地の半分を彦根藩(現在の滋賀県)の藩主であった井伊家(徳川家康配下の四天王と呼ばれた井伊直政が藩祖)に与えた。彦根藩世田谷領は明治になるまで続いている。

 次回は江戸時代に世田谷を治めた彦根藩の武術について記してみたい。

参考文献

  世田谷区ホームページ

  区政85周年記念誌 「世田谷 往古来今」平成29年世田谷区