2024年5月 武道史の研究

※このレポートは2022年8月に掲載されたものの再録です。

その5 豪徳寺を訪ねて

 武道史についてホームページに記載するにあたり、先ず、私が住む世田谷の歴史について調べた。そこで江戸時代以降明治になるまで彦根藩の井伊家世田谷領であったことがわかり、彦根藩で行われていた武術について調査を行った。

 続いて幕末に幕府にて大老を務めた井伊直弼が自ら新しい流派を立ち上げるほどの居合の名手であったことがわかり、時代劇や教科書で知った井伊直弼像との違いに驚いた。その井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で少数ながら襲撃者に対して敢然と立ち向かった彦根藩士の存在を知り桜田門を訪ねた。

 今回は井伊家の菩提寺である豪徳寺を訪ねた。

豪徳寺は寛永10年(1633年)に世田谷が彦根藩の所領地となり、文明12年(1480年)に建立されていた「弘徳院」を彦根藩井伊家は江戸菩提寺と定めた。 その後、万治2年(1659年)二代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み「豪徳寺」に改称された。

 彦根藩井伊家墓所には幕末の大老十三代藩主井伊直弼の墓、二代藩主井伊直孝の墓をはじめ歴代藩主や正室たちの墓が並んでいる。

 また、「桜田門外の変」にて井伊直弼を警護して殉死した彦根藩士8名の慰霊碑「桜田殉難八士之碑」がある。

 「招福猫児」

 この地を通りがかった鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前に居た猫に手招きされ立ち寄ることになった。寺で過ごしていると突然、雷が鳴り雨が降り始めた。

雷雨を避けられたうえに和尚との話も楽しめた殿様はいたく感動、その殿様が井伊家二代藩主井伊直孝であった。豪徳寺は直孝に支援され再興。その後、豪徳寺では福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、お祀りする招福殿が建てられた。豪徳寺の「招福猫児」の特徴は小判を持っておらず、右手をあげていることである。これは人を招いて「縁」をもたらしてくれるが「福」そのものを与えてくれるわけではない。その「縁」を生かせるかはその人次第というところからきている。

 恥ずかしながら世田谷に住んで数年になるが豪徳寺を訪れるのは初めてであったが住宅地の真ん中にありながらとても良い気を感じられる場所であった。

 

参考文献 豪徳寺HP